火曜日、それは私が住む地区の燃えるゴミの回収日である。「ふむ、こんなところか」
早朝、一人暮らしを営んでいるボロアパートの一室で、私は燃えるゴミを袋に纏めていた。
といっても、所詮は一人の人間が出すゴミの量。定期的に出している私の部屋からは一袋分が精々だ。
そんなぱんぱんに膨らんだ見た目よりも軽いゴミ袋を片手に、私は部屋を出た。
「はぁっ……」
口から漏れた吐息に冷気による白い化粧が施される。冬の朝は太陽の出が遅い。時刻は6時半を回ったというのに、外はなお薄暗かった。
私はこの朝なのに夜の雰囲気を残す時間が好きだ。身体はしっかりと目覚めていても、実はまだ夜なのではと意識が錯覚してしまう。
もし� �すると、このまま朝は来ずに夜を迎えるのでは等と夢想してしまったりもする。阿呆らしいが、もしそうなれば私には堪らなく魅力的な出来事に違いない。
しばらく藍の色を滲ませる空を眺め、ゴミ捨てという目的を思い出した私は歩きを再開した。
かんっかんっと所々に錆の浮いた階段を、なるべく体重を掛けないように降りる。万が一を想定してしまう程に、この階段の老朽化は酷い。ぽろぽろと錆が鱗の様に落ちていく。
無事に階段を下り終えても、帰りにまた上らなくてはならない。それに大学の行き帰りも合わせると、最低でも一往復。憂鬱にならずにいられない。
最近では誰が最初に階段を踏み抜くか、住民の間で賭けの種にすらされている。これには同情の念を禁じざるを得ない。当然、私のよう� �二階住民の事である。
階段? さっさと取り換えてしまえ、気が気でならんのだよ。
だがしかし、私がここに住まう間にこの階段に穴が空く確率は低いだろう。何せ、私を除く二階住民はみな人の皮を被った『何か』だからだ。
一応の補足をしておくが、件の住民らは人であることは間違いない。間違いはないのだが、何処か人として逸脱しているのだ。思考やら神経やら何やらが。
その逸脱振りたるや、思わず私が気圧されてしまう程だ。人外よりも人外染みている。彼等の前では私などぴーぴーと鳴くだけの雛鳥、つまり無力なのである。
つい先日も私の部屋(201号室)から真反対(205号室)の住人が『よっ!』という気軽な掛け声で、階段を使わずに帰宅したのを見ている。
もし踏み抜くとした� ��、やはり一般人である私だろう。
何とか踏み抜くことなく下り終えた。この時ばかりは一階住人を羨ましく思う。とはいえ、一階の住人も禄な人が住んでいないので、上も下も大した差は無かった。
今更ながら、ここは魔窟かと疑ってしまう。むしろ、化物たちの総本山と言われた方が納得出来るだろう。そして、
「がはっははははーっ! よぉ、坊主、おはようさん! お前さんも朝が早いなあっ!」
「おはようございます、大家さん」
この寒空の下、目の前で乾布摩擦に勤しむ御老体がその総大将か。ぬらりひょんと言うよりは、むしろドワーフのイメージだが。
「何だ、お前さんも一緒にやりたくて来たのか!」
「いえ、私はゴミを捨てに来ただけです。誘うなら山門(やまかど)さんの方が� ��いでしょう」
「ああ、あの学者先生か。ひょろっこい身体してる癖に根性はあったもんなぁ!」
風邪は引きたくないので、私は生け贄を捧げて回避した。
西洋妖怪めいた容姿の癖に、この御老体の実態は大和魂の塊である。 しかもそれを押し付けてくるから質が悪い。住民は個々の差はあれ、みな被害に遭っている。
そこで、アパート住民による大家対抗会議にて全会一致(大家夫妻と本人除く)で生け贄に選ばれたのが、件の山門さんだ。
山門さんは有名な日本語学者である。ただし、枕詞に『色々と』が付いてくる。というのは、氏が重度の日本語オタク、いや、日本語フェチなのが原因である。
『日本語大好き! ただし、それ以外全ての言語・文字は消滅してしまえ!』と言ってのける程で、会話は勿論、室内にある物全てに日本語が刻まれ、それ以外の外来語は排斥されている。
夢は英語が敵性語と定められた時代、つまり第二次世界大戦中に移り住み、そこで妻を娶ることらしい。日本語の研究よりも時間旅行の研究が先で は、と言うのは無粋であろう。
そんな訳で、大家(男)に最も波長の合うだろう人間として生け贄に祭り上げられたのだが、実に嵌まり役であった。これには薦めた我々も安堵したというものだ。
ただ、問題があったとすれば、山門さんが乾布摩擦の最中にテンションが上がり過ぎて『鬼畜米英!』だ何だと叫ぶものだがら、ご近所の視線が痛かった。
翌日、塀にスプレーで大きく落書きがされていたのも嫌な思い出だ。
意気揚々と山門さん(103号室)を起こしに行く大家に、私はやるにしてもなるべく声を抑えるように言い、ゴミ捨て場へと足を運んだ。
ご近所の目は当然痛いのだが、あまり喧しさが過ぎると他のアパート住民も怒り出す。そうなると、こちらにも厄介が飛び火するのだから困る。
� �種はしっかりと消しておくに越したことはない。
「よいしょ、と」
ゴミ捨て場に到着した。
まだ朝も早いからか、そこは全くの空である。しかし、これも少し時間を置けば山となるのだ。ゴミだけに。
そんな小さな山の礎となる重くもない袋を、態々掛け声を込めて下ろす。
「これが年をとるということか。……ん?」
私がしみじみと世の諸行無常を愁いていると、自身に向けられる強い視線を感じた。
前後左右を見回してみても、私以外の人影は無し。では下かと俯いても、蟻が隊を成しているだけ。当然、彼等の複眼に私は映っていないだろう。
となると、残るは上という選択肢のみ。
「あいつか。……んん?」
いた。私を見つめる生き物が電柱の上に。
視線の主の� �体、それは硝子めいた瞳を持ち、全体が驚く程に白い、白い……。
「鳩?」
「違わいっ! だーれが鳩ぽっぽだってんだ、このすっとこどっこい!!」
と呟いたら違っていた。しかも、本『鳥』の口から不正解を言い渡されてしまった。悔しい。
……ではなくて、
「これは驚いた。ただの鳩かと思えば、人語を介する鳥だったとは」
「あーん? そういうおめえは俺っちが見えんのか。まだそんな力を持った人間がいたことの方が驚きだわ」
「そうだろうか? 私の回りでは至って普通なのだが」
「そりゃおめえの回りが異常なだけだってーの。あと、俺っちはただの鳥じゃねえ。烏(からす)の起源にして頂点、白烏の惣五郎(そうごろう)様とは俺の事よぉ!」
白烏は自慢気に翼を広げ、自身の 存在を宣言した。誰も名を尋ねてはいないのだが、勝手に名乗るあたり、烏の癖に頭が少々残念なのだろう。私の回りはこんなのばかりだ。
昔から、烏という存在の霊的な格は非常に高いものとされた。
その濡れ羽色した翼から、吉兆と凶兆の相反する遣いとして東洋・西洋問わず認知された者。世界の名立たる神話を紐解いても、登場の機会は多い。
有名な名を挙げるとすれば、烏の最高格と言っても良い八咫烏。太陽の化身とも言われ、日本のサッカーファンであれば、三本足をした烏のシンボルマークは馴染み深いだろう。
そんな最高格を押し退けて自身が烏の起源だと言う白烏は些か過信が過ぎるようにも思えるが、こうして会話が成立している以上は立派な霊鳥であるという事。
だから、それなり� ��敬意は払っておくことにしよう。それなりに。
「はぁ、それでその白烏様が私に何の用で?」
「ばっか野郎、おめえみてえな小僧に用なんざねぇよ。俺っちが用があるのは、おめえの置いてったその袋でい」
「このゴミ袋を? 霊鳥である貴方が何故こんな物を必要とするのですか」
別に金気のあるような物は含まれていないのだが……。
「何でぇ、おめえは本当に馬鹿なのかい。そこにゴミ袋あれば、烏のすることなんざ一つだろう」
「……まさか」
「おう、その中身をいただくまでさ。分かったらその袋を寄越してとっとと失せな、小僧」
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